おはようございます。
本日の今日は何の日?は私、Y賀からお送りいたします。
8月27日 宮沢賢治の誕生日
1896年8月27日に宮沢賢治は誕生しました。
幼少期は鉱物採取、国語が得意で15歳のころから和歌を詠み始めたそうです。18歳の時に法華経の経典と出会い大変感銘を受け法華経に入信し、熱心な信者となります。
大学卒業後、童話作家を志して東京へ行きました。こうして童話作家としての宮沢賢治の人生が始まると思いきや…溺愛する妹のトシ子が病気に臥せているという報を受け東京に来て半年で帰郷するのです。この間「雪渡り」という童話を発表したのみでこの童話の原稿料5円が宮沢賢治が生前にもらった唯一の原稿料となったわけです。
帰郷した後は地元の農業学校の教師に赴任しました。しばらく教鞭をとってましたが、生徒たちに立派な農民になれと教えつつも、自身は何も農業の辛さを体験していないということで教師を辞め農耕生活を始めます。そして農村を回って稲作法や土壌学、植物学を講義する他、農民に芸術の重要性を説き、童話やレコードの鑑賞会を行ったりしていたそうです。彼の執筆した論文に「農民芸術論」がありますが、その序論に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と書いています。
その後、自身の持つ地質学の知識を買われ石灰肥料の会社に誘われました。石灰肥料により多くの収穫が見込めるということで会社の利益と農民の利益が一致し、彼は奔走し石灰肥料の普及に奔走します。しかし以前から悪かった体調がさらに悪化し、ついに倒れてしまいました。この病床生活中にあの「雨ニモマケズ」を書いたと言われています。
そして宮沢賢治37歳の秋に「法華経1千部を印刷して知人に配布してほしい」と遺言を残し、午後1時半に息を引き取ったそうです。
その後、賢治の農耕生活の傍らで書いた童話が草野心平らの尽力で世に広まり、評価され今に至るというわけです。
ざっとかいつまんで宮沢賢治の生涯を書きましたが、大変な情熱家であり人格者だった事が伺えます。明治の文豪って駄目人間が多いイメージだったのですが、この人は違った様ですね。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という思想は銀河鉄道の夜に色濃く表れていると思います。もう一度読んでみようかな~
AV資料 「銀河鉄道の夜」 VT77/500
「注文の多いレストラン」 VT77/502
Y賀
2015年8月27日木曜日
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